迷惑超勇名選手紹介
先輩に学ぼう 後輩を知ろう No.6
2009年11月
第6回目は Dr.佐藤浩之助です
第6回目は Dr.佐藤浩之助です
佐藤 浩之助 Kohnosuke Sato
生年月日 | 昭和21年1月6日 金沢市(石川県)生まれ | |
---|---|---|
迷惑背番号 | 221 | |
出身 | 成蹊高校→東大 | |
Rugby暦 | 本格的には大学から開始。学士ラガー(Captain)、名古屋クラブ、東惑クラブ(白紺Captain)、この間、東大コーチ(前ラグビー協会長の町井氏と共に)、名大監督(20年)、九大部長(10年)など | |
趣味 | もちろんラグビー、その他、絵画、写真 | |
家族構成 | 家内と、子供2人(男、女)ともに結婚、2009年10月ようやく初孫誕生 |
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INTERVIEW
今回は特別企画として interview形式で纏めました。
interviewerは中村征機先輩です。
中村:佐藤がラブビーを始めたキッカケは、どんなことだった?
佐藤:本当に、人間は『縁』だと思うんです。実は大学の合格発表の直後、運動部の入部説明会がありまして、 野球部・ボート部・ラグビー部の3つのどれかにしようと思って各ブースを訪ねました。野球部では説明者が一人いて、
「理系だと難しいですかねえ」と聞くと、
「そうねえ、午後は全部練習だからねえ」
との答え。次にボート部を訪ねると背の高い色黒の人がいて、
「やっぱりエイトを漕ぐには、背は180cm位ないと難しいですかねえ」と聞くと、
「そうねえ。180cmはないとねえ」
との答え。最後にラグビー部を訪ねたところ、部員が数人いて、
「理系なんですが」と聞くと、全員
「ああ、全然問題ないよー」「理系の連中も多いし、絶対一緒にやろうぜ」
との盛り上がり。お礼を言って別れ、いったん帰りかけて駒場の校門を出ましたが、決心をするなら早いほうがいいと思い、 意を決してすぐに引き返し、「やっぱり入部させて下さい」と申し込み。すると大拍手。ずいぶん後のことですが、 多くの上級生がこの時のことをハッキリ覚えていてくれていました。昭和39年3月の、入学式よりかなり前のことでした。
後日談なのですが、3年生になったある時、同じクラスにボート部のやつがいて部活動の話になり、そいつが
ボート部「お前がボート部にいてくれたらなあ」
私 「いやあ、実は入学直後に、ボート部の門を叩いたんだよ」
ボート部「えー!? で、どういうやり取りをしたの?」
私 「入部説明会で説明の人に聞いたら、やっぱり背は180cmないとエイトはだめだって言われたんだ」
ボート部「その時の人って、どんな人だった?」
私 「背が高くて色黒で、目がぐりっとしていたけど」
ボート部「あーあー、あの人ねー。あの人は、みんなにそう言うんだよなー!」
本当に、人間は『縁』ということが大きいと思っています。
中村:これまでの試合で、記憶に強く残るものを3つ上げると?
佐藤:1つ目は、公式戦初試合です。七人制ですが、昭和40年4月の横浜YCAC大会での1回戦、同志社大との引き分けです。 同大が、そのちょうど1年前(昭和39年3月)の第1回日本選手権で優勝を飾ったチームとは知らず、無心で戦い10−10でした。 あとで、当時日本ラグビー協会長の香山蕃さんが、えらく喜んでおられたとか聞きました。2つ目は、これも七人制ですが、 シンガポールでの国際大会センブンス優勝です。プレート杯ですが。実は、学士ラガーのチームが招待された時、 最年長プレーヤーで参加したのですが、学士チームはトーナメントになってからすぐ敗退しました。が、この大会には、 チームにけが人がでた時はデッドになったチームから補強をしていい(正式に登録する)というルールがあり、 スタンドの隣にいたオーストラリアの「パルマイラ」というチームから私がスカウトされたのです(最年長にもかかわらず!)。 そのチームで2回戦から参加し、準決勝で逆転トライ、決勝戦では同点トライとサドンデス延長戦での決勝トライをし、 同チームからめちゃくちゃ喜ばれました。今でも、南半球のこのクラブハウスに、名前が残っています。
しかし、やはり何と言っても、一番の印象深い試合は3年生の時の慶応大戦です。この定期戦は、2年前の日吉グランドでの勝利、 1年前の秩父宮での3トライをしての勝利も有難い思い出ですが、それより、この試合の11−24の敗戦が一生の“有難い”思い出です。 その年立教大に久々に勝利し、明治大にも勝って臨んだ試合です。しかも、その慶大に2年間勝って臨んだ試合でした。しかし負けました。後から考えるといくつものことが重なっていたようです。本当に、いろいろな意味で人生の教訓になっています。
実は試合後数年たってから、当時の慶大の監督さん(藤井さんだったと思いますが)から、飲みながら当日の話を聞く機会がありました。 藤井さんが、「当日、僕がチームに何と言ったと思いますか?」。 実は、試合前にチームのメンバーを集めて、
『おまえら、この試合のために1年間やってきたんだぞ!』
慶応大学にして、この必死さ真剣さが、実に大切なのだと教えられました。頭が下がりました。今でも、この言葉は私の人生訓です。
中村:ところで、ノーベル賞はいつ頃になるの?
佐藤:いやいや、私はそんな。他にたくさん立派な方がおられますし、また、核融合というのは多人数のチームで成果をあげてきましたので、―――。
ところで、ノーベル賞受賞者にもいろいろおられますので少しだけご紹介を。野依先生には、名古屋大学にいた時にお会いしたことがあります。 静かな方でした。一方、小柴先生ですが、私が大学院入学時の研究室説明会の壇上でのくわえタバコや、 大学院先輩の単位の扱いに関する研究室(私)への電話など、仕事と人柄は別なのだという印象です。 また、神岡鉱山でのノーベル賞の対象となった大きな成果も、実は本当の目的とは別の結果なのです。当時の文部省の予算措置からすると、 実は「目的外使用」なのです。人生、縁も大事ですし、面白いですね。私の印象からすると、近年では、 益川先生が人柄としても一番魅力的だと思っています。
自分自身に関するマジな話としては、昨年九大に世界初となる“QUEST”という装置を提案し完成にまでこぎつけました。 もちろん私一人の力だけではないですが。この装置での成果が、5〜10年後くらいにうまく実るとすると、 もしかすると15〜20年後に、‐‐‐! いやいや、無理でしょうね、ハッハッハ(笑)
interviewerは中村征機先輩です。
中村:佐藤がラブビーを始めたキッカケは、どんなことだった?
佐藤:本当に、人間は『縁』だと思うんです。実は大学の合格発表の直後、運動部の入部説明会がありまして、 野球部・ボート部・ラグビー部の3つのどれかにしようと思って各ブースを訪ねました。野球部では説明者が一人いて、
「理系だと難しいですかねえ」と聞くと、
「そうねえ、午後は全部練習だからねえ」
との答え。次にボート部を訪ねると背の高い色黒の人がいて、
「やっぱりエイトを漕ぐには、背は180cm位ないと難しいですかねえ」と聞くと、
「そうねえ。180cmはないとねえ」
との答え。最後にラグビー部を訪ねたところ、部員が数人いて、
「理系なんですが」と聞くと、全員
「ああ、全然問題ないよー」「理系の連中も多いし、絶対一緒にやろうぜ」
との盛り上がり。お礼を言って別れ、いったん帰りかけて駒場の校門を出ましたが、決心をするなら早いほうがいいと思い、 意を決してすぐに引き返し、「やっぱり入部させて下さい」と申し込み。すると大拍手。ずいぶん後のことですが、 多くの上級生がこの時のことをハッキリ覚えていてくれていました。昭和39年3月の、入学式よりかなり前のことでした。
後日談なのですが、3年生になったある時、同じクラスにボート部のやつがいて部活動の話になり、そいつが
ボート部「お前がボート部にいてくれたらなあ」
私 「いやあ、実は入学直後に、ボート部の門を叩いたんだよ」
ボート部「えー!? で、どういうやり取りをしたの?」
私 「入部説明会で説明の人に聞いたら、やっぱり背は180cmないとエイトはだめだって言われたんだ」
ボート部「その時の人って、どんな人だった?」
私 「背が高くて色黒で、目がぐりっとしていたけど」
ボート部「あーあー、あの人ねー。あの人は、みんなにそう言うんだよなー!」
本当に、人間は『縁』ということが大きいと思っています。
中村:これまでの試合で、記憶に強く残るものを3つ上げると?
佐藤:1つ目は、公式戦初試合です。七人制ですが、昭和40年4月の横浜YCAC大会での1回戦、同志社大との引き分けです。 同大が、そのちょうど1年前(昭和39年3月)の第1回日本選手権で優勝を飾ったチームとは知らず、無心で戦い10−10でした。 あとで、当時日本ラグビー協会長の香山蕃さんが、えらく喜んでおられたとか聞きました。2つ目は、これも七人制ですが、 シンガポールでの国際大会センブンス優勝です。プレート杯ですが。実は、学士ラガーのチームが招待された時、 最年長プレーヤーで参加したのですが、学士チームはトーナメントになってからすぐ敗退しました。が、この大会には、 チームにけが人がでた時はデッドになったチームから補強をしていい(正式に登録する)というルールがあり、 スタンドの隣にいたオーストラリアの「パルマイラ」というチームから私がスカウトされたのです(最年長にもかかわらず!)。 そのチームで2回戦から参加し、準決勝で逆転トライ、決勝戦では同点トライとサドンデス延長戦での決勝トライをし、 同チームからめちゃくちゃ喜ばれました。今でも、南半球のこのクラブハウスに、名前が残っています。
しかし、やはり何と言っても、一番の印象深い試合は3年生の時の慶応大戦です。この定期戦は、2年前の日吉グランドでの勝利、 1年前の秩父宮での3トライをしての勝利も有難い思い出ですが、それより、この試合の11−24の敗戦が一生の“有難い”思い出です。 その年立教大に久々に勝利し、明治大にも勝って臨んだ試合です。しかも、その慶大に2年間勝って臨んだ試合でした。しかし負けました。後から考えるといくつものことが重なっていたようです。本当に、いろいろな意味で人生の教訓になっています。
実は試合後数年たってから、当時の慶大の監督さん(藤井さんだったと思いますが)から、飲みながら当日の話を聞く機会がありました。 藤井さんが、「当日、僕がチームに何と言ったと思いますか?」。 実は、試合前にチームのメンバーを集めて、
『おまえら、この試合のために1年間やってきたんだぞ!』
慶応大学にして、この必死さ真剣さが、実に大切なのだと教えられました。頭が下がりました。今でも、この言葉は私の人生訓です。
中村:ところで、ノーベル賞はいつ頃になるの?
佐藤:いやいや、私はそんな。他にたくさん立派な方がおられますし、また、核融合というのは多人数のチームで成果をあげてきましたので、―――。
ところで、ノーベル賞受賞者にもいろいろおられますので少しだけご紹介を。野依先生には、名古屋大学にいた時にお会いしたことがあります。 静かな方でした。一方、小柴先生ですが、私が大学院入学時の研究室説明会の壇上でのくわえタバコや、 大学院先輩の単位の扱いに関する研究室(私)への電話など、仕事と人柄は別なのだという印象です。 また、神岡鉱山でのノーベル賞の対象となった大きな成果も、実は本当の目的とは別の結果なのです。当時の文部省の予算措置からすると、 実は「目的外使用」なのです。人生、縁も大事ですし、面白いですね。私の印象からすると、近年では、 益川先生が人柄としても一番魅力的だと思っています。
自分自身に関するマジな話としては、昨年九大に世界初となる“QUEST”という装置を提案し完成にまでこぎつけました。 もちろん私一人の力だけではないですが。この装置での成果が、5〜10年後くらいにうまく実るとすると、 もしかすると15〜20年後に、‐‐‐! いやいや、無理でしょうね、ハッハッハ(笑)